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中央アジアの音楽を聴きながら
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ウズベキスタンの旅 へ

印象に残った・・・見どころスナップ




日本人墓地 ( 写真左 )
第2次世界大戦でソ連の捕虜となり、512名の日本人抑留者がウズベキスタンで亡くなり、その内の79名がこの墓地に眠っている。墓標と祈念碑がある。ウズベキスタンで亡くなった人の名前、出身地を刻んだプレートがある。墓地は綺麗に整備、清掃され、日本人の魂に触れる美しい桜の木の下で静かに眠っている。この地を訪れた日本人は必ずこの墓地に来て冥福をお祈りする。日本のために寒い異国の地で大変なご苦労があったことを思う時涙を禁じ得ない・・




日本人が建てた・ナボイ劇場 
第2次世界大戦でタシケントに連れてこられた日本人抑留者の強制労働によって建てられた劇場である。1966年大地震の時にもびくともしなかった日本人の建造技術の高さが語り継がれている。記念碑には日本人の手によって造られたことが明記されているが、敢えて「日本人捕虜による」とは書いていない。これはウズベキスタン大統領によれば、日本とウズベキスタンが戦争をしたわけではなく、捕虜ではないとの信念にもとずくものだとか・・。劇場は1947年に完成の1500人収容の素晴らしいオペラ・バレエ劇場である。


リアビハウス ( 写真右 )
ブハラのオアシスの池。ハウスとは池の意で、ブハラは200ちかい池(ハウス)がある水の都であった。この池は「力ずくのハウス」と呼ばれ、伝説によれば大臣が大きな池を造ろうと地主の女性ユダヤ人と交渉したが断られ、腹いせに彼女の家の近くに運河を造り家を流そうとしたため、やむなく彼女が放棄し、1620年にこの池が造られたとか。広さは46m*36m、今では市民の憩いな場、情報交換の場所になっている。周囲の樹木は樹齢数百年という・・







グル・エミ−ル廟 ( 写真左 )
グル・エミールとは、タジク語で「支配者の墓」の意でチムール一族が眠る廟。1404年チムールが最愛の孫・ムハンマド・スルタンの為に建てたが、チムールも翌年此処に葬られる。チムール自身は生地のシャフリサーブスに葬られることを希望し廟も造っていたが、希望は実らなかった。廟内部は1996年に修復、金3kgが使用され当時の美しさを再現。墓は中央に黒緑色の軟玉で造られたチムールを中心に息子や孫のものが並んでいる。亡骸はこの地下3mの所にある。




シャーヒ・ジンタ廟群 ( 写真左 )
シャーヒ・ジンタとは「生ける王」の意。伝説によれば7世紀、イスラムの布教でやって来た予言者ムハンマドの従兄が異教徒に襲われ首をはねられたが、彼はその首を持って深い井戸に入って行き、そしてイスラムが危機に陥った時に救いに現れるという。此処はサマルカンド随一の聖地でチムール一族の霊廟が一列に11棟並び立つ。その装飾の多様さ、美しさは素晴らしい。現在全ての建物が大規模修復工事中で一部の外観しか見られなかったのはとても残念であった。一見の価値あり。


アミール・チムール広場 ( 写真右 )
新市街の中心にあるチムール広場。旧ソ連時代はレーニン広場と呼ばれていた。此処タシケントには新生ウズベキスタンのシンボルであるチムールが馬に乗った像が建っている。チムールの3像の一つで、座った像はサマルカンドに、立っている像はシャフリサブスにある。このチムール広場の西側には歩行者天国のブロードウエー、南には歴史博物館などがあり、何れも歩いて10分程度で行ける。







旧市街(エスキ・シャハル) 
新市街と違って狭い土埃の舞う細い道に入っていく。迷路の様に連なっており入り込むと出てこられないほど・・これが旧市街。此処にはバラク・ハン・メドレセやカファリ・シャーシ廟など15-16世紀の建物が点在する。革命前は全部で250のモスクと17の神学校があったという。




クケルダシュ・メドレセ ( 写真左 )
クケルダシュにより16世紀に建てられた神学校。ソ連時代には倉庫として使われていたが、独立後修復されて、今は神学校として使われ、250人の学生が勉強中。特に金曜日は大きな礼拝が行われ、沢山の人が集まってくる。ロシアに併合される前にはレギスタンと呼ばれタシケントの中心地であった。


アルク城 ( 写真右 )
この城のある当たりが古代ブハラの発祥の地。7世紀にアラブと戦い、モンゴル来襲の時にはチンギスハーンと戦い、その後も多くの外敵に襲われては壊され、壊されては立て直され・・の繰り返し。今残っているのは18世紀のもの。歴代ブハラ・ハーンの居城で、残虐なハーンは反抗した人を容赦なく虐殺したという。門を入ると囚人の地下室、ジュマ・モスク、玉座の間、ハーンの居室などがある。







ブロードウエー ( 写真左 )
チムール広場の西側ににあるサイールゴフ通りは歩行者天国になっている目抜き通りで、オープンカフェや土産物屋、露店などが並んでいる。通称ブロードウエーと云われており夜遅くまで市民の散策の場所になっている。端から端まで歩いても10分程度である。




アライ・バザール ( 写真左 )
中心地にも近く、観光にも便利なバザール。季節の野菜や果物、干し葡萄やいちじくなど沢山並べられている。歩いていると大きな声を掛けられ、干し葡萄や杏など試食を勧められる。美味しければ後は値段交渉・・。お互いに顔を見ながらも少しも少しと値段を下げて行く。値段が限界にきたら今度は数を増やして割安になるよう再交渉して行く。競争が激しいのでこちらが有利に進められる。同じ物でも品質にかなり差があるのでご注意を!品質と値段のバランスを考えて・・


カファリ・シャーシ廟 ( 写真右 )
信仰を集める10世紀の聖人の廟。建築は1541年のもので、補修された銀色のドームが目印。カファリ・シャーシは神学者、詩人でその墓に詣でると御利益があると云われている。我々も中に入ってお経を上げて貰った。御利益があったのだろうか・・ この廟の向かいにはイスラムの高等教育機関、神学校があった。







ナディル・ディパンベキ・メドレセ 
ブハラにあるイスラムの教義に反する動物のデザインが描かれたナディル・ディパンベキ・メドレセ。1622年にナディル・ディパンベキによって建てられた神学校。正面入り口の鮮やかなタイル絵が印象的。2羽の鳳凰が白い鹿を掴み太陽に向かって飛んでいる。太陽の中心には人の顔が描いてある。偶像崇拝を否定するイスラムの教義に反するのだ。最初は木賃宿として建て完成後神学校と宣言したとか。今は中の各部屋は土産物屋になっている。




ウルグベキ天文台 ( 写真左 )
驚くべき正確さを誇るウルグベキ天文台。現在は丸い天文台の基礎と六分儀の地下部分の11m部分のみが残っている。天文台は3階建て高さ30mで弧長63mという六分儀は巨大なものだった。ウルグベキ(1394-1449)が割り出した1年=365日6時間10分8秒の推測は、現在のコンピューターが割り出した数字と誤差1分未満!望遠鏡もない当時の技術で如何にしてこのような正確な数値を割り出したか驚きである。サマルカンドの偉人!


コク・グンバス・モスク ( 写真右 )
チムールゆかりの建築群。中庭に入ると右側に青いドームのコク・グンバス・モスク。1436年ウルグベクによって建てられた。内部はフレスコが修復されている。向かい合った2つの廟は右側奥がグンバズイ・サイータン廟でウルグベクが自分の子孫の為に建てたもの。左側のシャムスッディン・クラル廟はチムールの父とその指導者のシャムスッディン・クラルが葬られている。1374年にチムールによって建てられた。




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